宮城県 泉ヶ岳の昔
泉ヶ岳は、仙台市民にとって身近な山として、昔から親しまれてきましたね。その歴史は古く、縄文時代にはすでに人々が生活していた痕跡が見つかっています。
- 山岳信仰の対象: 山頂には、かつて蔵王権現を祀る祠があり、山岳信仰の対象として崇められていました。麓には、修験道の行場や寺院なども点在していたようです。
- 生活の場: 山麓では、炭焼きや薪取り、山菜採りなど、山と共に生きる人々の暮らしがありました。また、牧畜も盛んに行われていたようです。
江戸時代の泉ヶ岳 定義参道
江戸時代 芳の平から兎平一帯、泉ヶ岳頂上まで至る所に萱が生えており、その広大な原野を萱生地として生活に直結する秣や萱を採る近くの村(根白石、福岡、朴沢等)の貴重な場所であり現在、登山道のメインのコースとして使用されている水神コースは以前は萱刈り、萩狩りの農道として水神止まりで明治以前からあったようだ。
このように、人々が泉ヶ岳に訪れたのは、豊富な山林資源に関与する山仕事の者や信仰の対象(定義参り)、そして麓の人々の地域生活につながる資材、飼料等の確保の目的が主であった。
*秣:馬や牛などの飼料にするほし草・わら。かいば
*萱:屋根をふく材料とする草、芳の平の萱は萱葺屋根を維持するのに使われていたのである。
また、泉市誌に「泉ヶ岳と北泉ヶ岳を境とするにも定義道があったと聞く。大和町升沢から桑沼のほとりを通り、北泉ヶ岳の中腹を横切り、黒鼻山を越え、宮城町大倉の横川を下り、定義へと向かった。
昭和52年夏大和町升沢の旅館船形荘主人 早坂吉蔵の話を聞いた。
『色麻・中新田・宮崎・岩出山・鳴子方面の参拝者が通った道だ。俺も若い頃二、三度お詣りしたとのことであった」と述べている。
又、この道を利用していたであろうと思われる記録が東北帝大山岳部30年記念誌に残っていた。
大正13年に部員2人が泉ケ岳からの船形山への登山で、北泉ヶ岳の直下で一泊し、北泉ケ岳の山腹を横切り平らに出て、林道に沿って桑沼の脇を通って升沢に向かったようで、升沢登山口から船形山を目指したとある。
参考文献:泉ヶ岳戦後75年の歩み(島田 文雄) ページ5 宮城県県立図書館 保管

泉ヶ岳 古道と定義山道
昭和初期の泉ヶ岳 山小屋&スキー場
1932年(昭和7年)頃、泉ヶ岳の萱刈場油堂に地元のスキーヤーたちが小学校の廃材を用いて小屋を設置した。この小屋は、管理人夫婦の女性「おせきさん」から「おせき小屋」と呼ばれるようになった。
昔は泉ヶ岳に登山する場合、車、バスでの交通手段はなかったの登山する際には麓の根白石から歩いて途中、山小屋で宿泊していた。
登山&スキー小屋 芳の平の泉ヶ岳スキー小屋(通称 おきせ小屋)
昭和8年に根白石村泉ヶ岳体育協会スキー部が泉ヶ岳中腹部(現在の芳の平付近)に山小屋を建設し、一般のスキーヤーに開放し、翌9年年には東北、北海道の選手が参加して第一回泉ヶ岳滑降競技大会が開催された、登山とスキーの基地として新たな歩みを始めた。
また、泉ヶ岳スキー小屋は後に利用する人々から管理人のおばさんの名を耿って「おきせ小屋」と
して親しまれ、多くのスキーヤーや登山者そして山仕事や秋の萱刈りの村人が利用していたようである。
泉市誌には「おきせ小屋」は泉ケ岳の萱刈場油堂の片隅に建てられたが、昭和18年に焼失してしまったとある。

昭和10年のおきせ小屋

おきせ小屋跡地
推定場所の緯度経度:38°23’13.3″N 140°43’35.7″E
登山&スキー山小屋 泉ヒュッテ
戦後の1949年(昭和24年)根白石村の有志が泉ヶ岳の開発を模索して開発協会を立ち上げた。翌1950年(昭和25年)に開発協会は仙台市や宮城県等の職員を招き入れて観光協会となり、焼失したおせき小屋に替わる山小屋を作ることを決めて、これに取り掛かった。
しかし夏季に豪雨で橋が流され、建築資材の搬入が11月、着工が12月になるなど作業は難航し、未完成のまま最低限の設備で同月にこの山小屋は「泉山荘」として開所した。翌1951年(昭和26年)まで整備は続き、同年10月の落成式でこの山小屋は改めて「泉ヒュッテ」と名付けられた。
合わせて泉ヶ岳に登山道が切り開かれ、1952年(昭和27年)に森永キャラメルの寄贈で88箇所の登山指導標が立てられた。
1955年(昭和30年)に根白石村と七北田村は合併して泉村となり、2年後の1957年(昭和32年)に町制を施行して泉町になった。
泉ヒュッテの設置と道路整備の拡充から、根白石止まりだった仙台市営バスは路線の延長を何度か行い、1960年(昭和35年)には土曜日と日曜日に泉ヒュッテまで乗り入れるようになった。
泉ヒュッテの場所は現在のオーエンス泉岳自然ふれあい館である。

昭和50年代頃の泉ヒュッテ
参考文献:『泉ヶ岳 戦後75年の歩み』 鳥田文雄 宮城県県立図書館 保管
泉ヶ岳スキー場の開発、オープン
1963年(昭和38年)泉ヶ岳の南斜面に泉ヶ岳スキー場が新たに設けられた。
泉ヶ岳のスキーに関しては昭和6年にスキー場が発見され、山頂から水神に至るコースが完成した、とか、昭和9年に滑降大会が開催され、山頂から見返平付近を通り、アップダウンをして兎平中央あたりを進み、現大駐車場あたりがゴールというコースであったとの事、植生が今とは違い、冬季は山頂付近まで雪野原で山頂からスキーで降りられた。

昭和30年 泉ヶ岳 三角山でのスキー大会風景
参考文献:『泉ヶ岳 戦後75年の歩み』 鳥田文雄 宮城県県立図書館 保管
昭和初期の泉ヶ岳 登山記録
泉ヶ岳の昔の古道の一部は現在の表コースであったが昭和26年迄は登山口に行くまでは麓の根白石から徒歩で歩く方法しかなかった。
昭和26年10月に泉ヒュッテができた当時、仙台市営バスは根白石が終点でした。
その後、昭和27年に福岡川崎、昭和29年に旗枠まで終点が延長され、昭和35年には泉ヒュッテまでやっとバスで行けるようになった。(しかし土、日曜日のみ)
又、昔の泉ヶ岳の写真がないかを探したら昭和初期に活躍した登山家、三田尾松太郎の著書「奥羽の名山」(冨山房昭和15年6月15日発行)で昔の泉ヶ岳の写真を見ることができた。(宮城県図書館 保管)

奥羽の名山 昭和15年発刊
昭和12年頃から東北地方の山々を登山した内容で、その中に3月中旬に登った泉ヶ岳での登山記が載っている。

参考文献:奥羽の名山 泉ヶ嶽
当時は泉ヶ岳では薪取りの伐採等の森林整備が行われおり、山頂には灌木(低木)しかなく、山頂から見返り平そして現在の泉スキー場迄約6㎞がスキーで滑れる非常にスキー場に適した場所おり、仙台の人達は近くに好適なスキー場があるのは羨ましい限りと述べている。
下の写真の右は昭和10年頃の3月中旬の写真であり、現在とは違い真っ白な雪に覆われた三角山で下に昔の営林署小屋が写っており、三角山の左の稜線は黒鼻山に続いている。

昭和10年3月中旬頃の泉ヶ岳(泉ヶ嶽 )
下の写真には現在の泉ヶ岳スキー場と旗頭が雪で真っ白、3月中旬であるが奥の峰を含めて山全体に残雪が多く、現在の状況とは全く異なる。
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昭和10年3月中旬頃の泉ヶ岳(泉ヶ嶽 )
林道 苦桃線:
泉ケ岳への信仰や登山などは、古くからは泉区の旗枠から苦桃、薬師水を経て泉ケ岳頂上までの表掛コースとしての道のりが同路線の原形である。当路線は、苦桃集落を過ぎたところにある二枚橋を起点として、通称護摩堂、そして高野原線との接続地までの区間であり、苦桃側が昭和10年頃に根白石村により整備が始まったようだ。
その後、昭和42年から護摩堂まで延長されて最終的には高野原線と接続された。
沿線には、宮城県林業公社や地元共有会等の植林地が多くあり、造林管理や找採材搬送に活用されており、ふところ深い沿線の山林火災等災害対応からも大切な役割をもつ路線となっている。参考文献:泉ヶ岳戦後75年の歩み(島田 文雄) ページ161 宮城県県立図書館 保管
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泉ヶ岳 古道コース(表コース&林道 苦桃線)
ヤマレコでの推定コース詳細はこちら
昭和初期の泉ヶ岳 スキー大会の始まり
泉ケ岳スキースロープやスキー場の適地が発見された頃は骨降競技そのものが日本に紹介されたばかりで、スピードとスリル感あふれる競技とし全国各地に普及していっ時でもあり、県内でスキー競技会場でとなっていたのは明治44年開場の鳴子上野々スキー塲であるるが滑降競技を行うに十分なコース等は備えていなかった。

泉ヶ岳スキー場 発見!!
戦前の昭和9年に第1回泉ヶ岳滑降競技大会が開催され、同13年第5回まで、同14年には全日本スキー選手権宮城県予選として開催されたが、それ以降は開催されなかった。
戦前の滑降競技大会は、特につくられたスキーコースではなく頂上から岡沼の西に滑り降り現在の兎平リフト終点の西側から現在の芳の平ミズバショウ群生地東方のヒュッテ(おきせ小屋)脇まで6 kmのナチュラルコースであったようだ。
戦後になって、昭和25年の泉ヒュッテ建設をきっかけに、地元山仲間達によって登山コースと
スキーコースの整備が進められ、戦前の滑降競技会に出場していた地元朴沢の加藤幸一氏等が中心ととなって、新たに頂上から大壁、小壁、お別れ峠のアップヒル、三角山東斜面を滑り降り、泉ヒュッテ西側までの全長2.7 kmのスキーコースがつくられた。

昭和初期の泉ヶ岳スキー大会
*当時、リフトはなく、ガンジキを履いて泉ヶ岳 山頂を登り、6kmのコースを滑ったのである!!

昭和初期の泉ヶ岳スキー大会の様子
参考文献:泉ヶ岳戦後75年の歩み(島田 文雄) 宮城県県立図書館 保管
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